祇園祭を学ぶ

総論山鉾建て方・巡行・曳き手囃し方粽(ちまき)長刀鉾音頭取り昔の山鉾巡行祇園祭の変遷その他番外・研修旅行

■番外・研修旅行

京都に修学旅行に来られた時に「祇園祭を知りたい」と山鉾連合会に立ち寄っていただけるケースもあります。
その一例をご紹介しましょう。
【日時】 平成13年12月11日(火) 午前9時〜
【日時】 茗溪学園中学校 3年E組5班 8名
班長 富田さん、杉内さん
質問内容と回答です。

(Q1)山と鉾はどう違うのですか?
(A1)鉾(曳き鉾)には真木が取付けられていて、その先端に鉾頭が付けられています。
ただし、船鉾にはありません。
山の場合は、鉾の真木に当るもので、山には松の木が取付けられています。ただし、太子山は杉の木が取付けられています。

(参考)八坂神社編「八坂神社」より
  • 「矛」
    貞観11年6月7日天下大疫の時に疫病消除、鎮護のため66本の矛を建て神泉苑に送り祭った。これを 園御霊会という。
    ※当時の矛は長さ6メートル程であった。
  • 「剣鉾」
    剣鉾とは、長さ約6メートルの柄の先端に矛が付き、取付け部に環があつて、これに金糸綴付けの大きな紋のついた長大な幡を掲げたもので、園祭の鉾はこの剣鉾から発達したものであろう事は容易に想像できる。この鉾こそ「ほこ」の源流とみられ、このような鉾と風流が結びついて、今日みられるような鉾が成立したのであろう。
  • 「山」
    山は台上に山形を作って松を立てて神の依代とし、人形を配するものである。
    ※山とは、神を祭る祭場であった。

(Q2)なぜ後祭の内容が前祭に移ったのですか?
(A2)観光客の激増により、狭い道路(寺町通、松原通)では山鉾(特に曳き山、曳き鉾)が安全に巡行が出来なくなってきたことがあげられます。家屋のビル化、看板の氾濫も一因です。
全国から来られる観光客が、安全にしかも一度に全ての山鉾が見られるように配慮されました。(宵山、巡行を含めて)広い御池通に観光客用として観覧席が設けられています。(有料)車の増加により、山鉾の組み建て開始日(10日)より巡行終了後の片付け日 (18日)間は、山鉾の町内一帯が交通規制が必要となり、その区域及び周辺が交通渋滞となります。(後祭の時は19日〜25日間)
巡行が2回となると一部地域が異なるが2回の交通規制をしなければなりません。1回にすることにより交通渋滞を少なくすることに配慮されました。

(参考)
  • 昭和40年(1965年)までの巡行は、前祭(17日)と後祭(24日)とに行なわれていたが昭和41年(1966年)からは合同巡行となり17日となった。
  • 巡行コースは前祭と後祭とそれぞれ別コースで行なわれ又幾度かのコース変更及びコース延長があったが昭和41年の合同巡行より現在のコースとなった。

(Q3)花傘が始まったのは?
(A3)傘鉾というのは、武器としての矛が傘の形をしているのではなくて、神様の儀、杖用の鉾に傘をつけたものです。神様の仮のお姿というべき矛などを頼って人々が蝟集し、これを抱擁する天幕のような意味で美しい織物で飾った傘を付けました。のちには矛がなくともその美しい傘だけで、そこに神様がおいでになることはわかります。そうした意味で傘鉾が生まれたと考えられます。
* 現在も続いている今宮神社の「やすらい祭り」とはいとこのような伝統と考えられます。

(Q4)花傘巡行とは?
(A4)24日の還幸祭の当日に行なわれている巡行です。
昭和41年に後祭りが前祭りと合同巡行となった後に花傘連合会が結成されて花傘、祇園太鼓、獅子舞、祇園囃子、馬長、鷺祭などの行列の巡行を行なうことになり今日に至っています。

(Q5)なぜ長刀鉾に子供が乗るのですか?
(A5)長刀鉾に乗っている子供は3人(稚児1人、禿2人)です。
昔(1,000年以前)祭礼に際して、朝廷や諸公家から馬を献ずる例がありそれに乗せる美しく着飾った少年を馬長といいました。(神聖視されていました。)
この馬長が稚児に移行して行ったといわれています。

(参考)
  • 昔は船鉾以外の鉾には全て稚児が乗っていたが、函谷鉾が天保10年(1839年)に人形としたのが人形稚児の始まりであり、昭和4年(1929年)に放下鉾が人形になったのを最後に今は長刀鉾以外は皆人形となった。
  • 稚児にかわって人形が乗っている鉾は5基である。
  • 記録では、長刀鉾には享保4年(1719年)の稚児に浜田倹校子息亀の助との記録がある。


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