『私とプロレスと棚橋弘至と』

2016年9月20日発行の『水道橋博士のメルマ旬報vol096』に角田さんが棚橋選手宛に寄稿したエッセイです。


リノリウムの床を鳴らす看護師の足音が、被ったままの記憶の皮を剥いていく。
その日、成年後見の業務で訪れた病院は、私が4歳の時に包茎手術を受けた病院だった。
ナースシューズの「ギュッギュッ」という摩擦音が、
術後の消毒をしようとする看護師に追い掛けられて逃げ回った遠い記憶を蘇らせた。
 
「血尿は大丈夫ですが、この子は真性包茎です。将来苦労しますよ。」

私の血尿を心配し、地元で一番大きな総合病院の泌尿器科を受診した母の勝子は、
息子(の息子)への非情な宣告に動揺しながらも手術を決意した。
今にして思えば、勝子の英断は、1987年の日本シリーズで巨人の中堅手クロマティの緩慢な守備の間隙を縫い、
単打で一塁から本塁へ一気に生還した西武の辻発彦の英断に比肩するが、
当時はそもそも何の手術をしたのかさえ理解できなかった。
そんな私の不安を払拭しようと、勝子はこう言い含めた。
「りゅうちゃんのオチンチンはアメリカ製のオチンチンになったんやで。」
「アメリカでは割礼をする」という意味で勝子はそう言ったのだろうが、
「アメリカ」と言えば私が喜ぶという目論見もあったはずだ。
 

1981年12月13日。
この日、蔵前国技館で私の幼少期最大の事件が起こった。
全日本プロレスの『世界最強タッグリーグ戦』の最終戦に、
ザ・ファンクスと対戦するブルーザー・ブロディとジミー・スヌーカ組のセコンドとして
新日本プロレスのスタン・ハンセンが現れたのだ。

1976年12月16日生まれの私は5歳になるかならないかだったが、
『全日本プロレス中継』にスタン・ハンセンが登場した瞬間、
台所で夕飯の準備をしていた勝子に向かって絶叫した。
「お母さん! ハンセンが全日本に出てるで!」
すでに私は、スタン・ハンセンが新日本プロレスのエース外国人レスラーで、
全日本プロレスのリングに登場することが異常事態であることを理解していた。
 
「『アメリカ製のオチンチン』と言えば、プロレスが大好きなりゅうちゃんは自分のオチンチンを、
ハンセン、ブロディ、ファンクスと同じオチンチンと思って喜ぶ」という勝子の目論見どおり、
私は幼稚園で「アメリカ製のオチンチン」を見せびらかすようになった。

私が「アメリカ製のオチンチン」を見せる度に、
担任のノリコ先生は怪訝な表情を浮かべていたものだ。
というのも、包茎手術を受けたとはいえ、
股間のチン・ゴジラは真性から仮性へと第二形態に変化しただけだったのだから
(第三形態に変化するには、さらに10年の歳月を要した)。
 
ノリコ先生を困惑させたのは、「アメリカ製のオチンチン」だけではなかった。
ノリコ先生が「生き物の名前をノートに書きなさい。」とお題を出した時のこと。
他の園児が、「うま、とら、からす、いぬ...」と動物の名前を書くのを尻目に、
「うえだうまのすけ、タイガージェットシン、ミルマスカラス、マッドドッグバション...」と書き殴るマッド園児がひとりいた。
「りゅうちゃんはプロレスラーの名前ばっかり書いたね。」と呆れるノリコ先生に私は冷たく言い放った。
「『ミスターたかはし』と『ジョーひぐち』はレフリーやで。」
 
小学校に入学した1983年の6月2日、
アントニオ猪木が第1回IWGPの決勝戦でハルク・ホーガンのア
ックスボンバーを浴びて舌を出した状態で失神、病院送りにされた。
「猪木が死んでしまう。」
人の死を具体的に観念したのは、あの日が初めてだったように思う。
 

アントニオ猪木が戦線に復帰して地元のスーパーへサイン会に来ることを知った私は、
学校を休ませてくれと勝子と交渉したものの、
「お母さんが代わりに行って猪木のサインをもらって来てあげる。」という折衷案に押し切られた。
サイン会当日、私は「龍平君へ 闘魂 アントニオ猪木」と書かれたサイン色紙を想像しては
、授業も上の空でほくそ笑んでいた。
「早く猪木のサインが見たい!」

終業のチャイムと同時に学校を飛び出し、息せき切って実家に駆け込むと、居間の机には一枚のサイン色紙が!
念願のサイン色紙を手に取った私は、思わず天を仰いだ。
「...このサイン、猪木のサインとちゃうやろ!?」
色紙には、プロレス雑誌で見たことのある猪木のものとは明らかに違うサインが書き込まれていたのだ。
「...バレた? 猪木の前にはものすごい行列ができててん。そやから誰も並んでへんかった木村健吾にサインもろたんや。」
煎餅を頬張りながら『特捜最前線』の再放送を見ていた勝子は悪びれずそう答えた。

(筆者注:木村健吾。十八番の稲妻レッグラリアートは幼心にも顕著に説得力を欠いた。
間寛平と似た風貌から、大阪大会では技を繰り出す度に「かいーの!」と野次られることがあった。
往年のランバダブームに便乗して『デュオ・ランバダ』なるCDをリリースしたこともある。)

「...なんで木村健吾やねん!」
私はまだ木村健吾の詫び寂びがわかるほど年を重ねていなかった。
その日は、ただでさえ哀しい『特捜最前線』のエンディングテーマ『私だけの十字架』が殊更に哀しく聴こえたのを憶えている。
 
30年後。
2014年7月8日。
私は、大阪弁護士会の会報『月刊大阪弁護士会』の記者として、
「100年に1人の逸材」棚橋弘至選手をインタビューするため、中野坂上にある新日本プロレスのオフィスを訪れた。

月刊大阪弁護士会

この日、5件目の取材であるにもかかわらず、
棚橋選手は疲れた顔ひとつ見せず、1時間にも及ぶインタビューに真摯に答えてくれた。
それなのに、後日発行された「月刊大阪弁護士会」は、あろうことか棚橋選手をこう紹介していた。

「新日本プロレスのトップレスラー、立命館大学法学部出身」
「ニックネームは100人に1人の逸材」

 

「100年に1人の逸材」と「100人に1人の逸材」では一文字違いで大違いである。
「100人に1人の逸材」だと、イナバ物置のCMで物置の上に乗っている社員のうち1人は、
ハイフライフローの使い手ということになってしまう。
これじゃ、「ミルクホットケーキ(はちみつ&マーガリン)」の包装に
「ミルクホットケーキ(はみちつ&マーガリン)」と誤植があった山崎製パンを笑えやしない。
 
新日本プロレス訪問から9か月後の、2015年4月。
扶桑社から出版される棚橋選手の初のフォトブック
『The one-hundredth』[ジ・ワンハンドレッス]に、私はこんなコメントを寄稿した。
 

〈【証言2】同級生が語る1995年の棚橋弘至
 
立命館大学法学部に入学して間もない1995年の春。
語学の授業で先生から「隣の人と英語で会話しなさい」と言われて戸惑っている僕に、
純朴そうな青年が、はにかみながら話しかけてくれた。
「My hobby is pro-wrestling.」
あの日、間髪をいれず「me too !」と答えた僕は、
昨年とうとう弁護士会の会報の取材にかこつけて念願だった新日本プロレスを訪問。
案内された会議室でしばらく待っていると、「100年に一人の逸材」が颯爽と現れた。
初めて会ったあの日と同じ、はにかんだ笑顔を見せる棚橋くんは、新日本プロレスのエースになっていた。
2015年の春。風光るキャンパスでは、棚橋くんのプロレスを観た後輩たちが、
あの日の僕らと同じ会話をしているのかもしれない。〉

 
400字の字数制限があったため、棚橋くんへの思いが溢れ出した。
 
棚橋くんから「新日本プロレスの入門テストに合格したよ。」と聞かされた時、
物心つく前から「My hobby is pro-wrestling.」だった私は我がことのように誇らしかったこと。
 
卒業式の朝、明日から新日本プロレスに入門するという棚橋くんに「ご両親はプロレス入りに反対しなかったの?」と尋ねると、
棚橋くんは「許してくれたよ。『その代わりチャンピオンになりなさい』と言われたよ。」と屈託なく答えたこと。
 
いくつものピンチから立ち上がりIWGPヘビー級チャンピオンになった棚橋くんに自分を投影して、
8回連続司法試験に落ちても諦めなかったこと。
 
9回目の挑戦で司法試験に合格して弁護士になり、
パーソナリティを担当した『オールナイトニッポンR』に棚橋くんがゲストで来てくれた夜、全てが報われた気がしたこと。
 
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大阪弁護士会の「100人の1人」の非礼にも、ブログでネタにして受身を取る棚橋くんは「100年に1人」の逸材であること。

棚橋弘至オフィシャルブログ
 
勝子の気まぐれで手に入らなかった「新日本プロレスのエースのサイン」を、
30年後に新日本プロレスで棚橋くんがプレゼントしてくれたこと。
 
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溢れる思いはこれからメルマ旬報で折に触れ綴っていきたい。
 
棚橋くん。
メルマ旬報「る」組へ、ようこそ。
21年ぶりに同じクラスになれたことを心から嬉しく思っています。
21年前は「My hobby is pro-wrestling.」とたどたどしかった英語も、
アメリカ遠征を何度も経験してペラペラなのでしょうね。
私は相変わらず、「me too !」程度の英語しか喋れません。
オチンチンは随分前からアメリカ製なのに。

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